同級生のマドンナが逝ってしまった。
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自分の中の生きようとする力を大切にしましょう。
あなたも、私も。
これからが生命力のみせどころ。
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そういうメッセージを残して。
腎臓の機能低下を宣告されて、必死にもがき始めて間もなくだった。
彼女とは、一度も話をしたことがなかった。
遠い存在のあこがれのマドンナだった。
でも、彼女のこのメッセージは、自分に向けられたものだと、
何の疑いも無く胸に抱きしめた。
そして、彼女は生命力を見せつけて逝ってしまった。
今度は自分の番だと勝手に思った。
そのバトンは自分が受け取った、とメッセージを噛みしめた。
だから、
腎不全がなんだ。
減塩がなんだ、腹八分目がなんだ、ダイエットがどうした。
そんなことで泣き言なんか言ってられるか。
生きようとする力があるんだ。
負けてたまるか。
そう思った。
とうとう、ひと言も話す機会も無く彼女は逝ってしまったが、
彼女の親しい友達で、私も親しい友人Aは私に言った。
「あなたはこやまんと友達で良かったね、って彼女言ってたよ」
時間が止まったような衝撃だった。
生きようとする力が体中にみなぎってくる思いがした。
腎不全に負けちゃいけない思いを強くした。
でも結局、
透析になっちゃったり、
心臓冠動脈が詰まっちゃったり、
命と引き替えみたいな綱渡りをしている。
でも生きている。
それが生きようとする力の証なんじゃないか。
生きている、じゃなくて、生かされている、だ。
と言葉遊びみたいな話もよく耳にする。
感謝の思いが大きく強ければ、「生かされている」になると。
しかし、透析にかかる費用のことなどを考えると、
「生かしてもらっている」としか考えられない。
それなのに、年月が経つに連れ、
口をついて出てしまいそうになる愚痴を飲み込んで、
ぁあ、ありがたいと思えるようになってきた。
あなたも、わたしも。