「今夜はケーキが買ってあるから」
出がけに女房から声をかけられる。
58歳の誕生日だからケーキを買ってくれてあるという。
「早く帰れる?」
「ちょっと遅くなる、会議と会食があるんだ」
(しまった!事前に言ってなかった・・・)
同業者の会議と懇親会が予定されている。
「じゃ、外でご馳走ね」
「まぁ、そう言うな。言い忘れてて悪かった」
以前、前線でばりばり働いていた頃は、
外でお客さんとご飯を食べるなんて当たりまえだし、
いちいち女房に断るまでもない。
と、そう思っていた。
今思えば、なんとも勝手で傲慢な考えだったか。
しかし、今は違う。
体を壊して透析になってからは、
すっかり価値観が変わってしまい、
ほぼ真っ直ぐ家に帰るようになっている。
ただそれでも、
どうしても抜けられない仕事上の会食が年に数回。
ちょうど今日は、それに当たってしまった。
その会食も、以前はお酒を浴びるように飲んでいたが、
今はすっかり飲めなくなってしまい、
さっさと終わって帰りたい気分でいっぱいのお付き合い。
その帰りがけ、
中でも親しくしている同業者の社長に声をかけられた。
「56歳でふられちゃったよ・・・・」
耳打ちするように小さな声で言うのだ。
数年前に離婚して今は子供たちと暮らす彼とは、
若いころからずいぶん飲み歩いた仲だった。
普通なら、
「なに?!飲もう!」と返す場面だ。
56歳で恋をし失った恋に甘辛い酒を酌み交わす場面だ。
しかし、今はもうお酒も飲めず、
ましてや今夜は誕生ケーキが待っている。
「そうかぁ、残念だなぁ・・・・・」
そう返して別れた。
失恋の酒より、誕生ケーキを取ったのだ。
体を壊してしまう前なら、
間違いなく彼と酒を飲みに行ったに違いない。
冷たい奴だって思われてるだろうなぁ。
冷たいよなぁ、実際。
人との付き合いが大事か、家庭が大事か、
いやいや、自分の体が一番大事だ、と言い聞かせながら、
帰りの車を走らせる。