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障害者の視点


透析とともに生きる」という本に、

視覚障害に陥ってしまった人の話が紹介されていて、

目からうろこというか、大変衝撃を受けた。

 

要約すると、こういうお話 ↓

—————————————————–

目が見えなくなってしまった方が、

ひとりで暮らしていけるように、がんばって、いろいろ訓練を重ねた。

例えば、朝起きて一番にする「歯磨き」。

練り歯磨きを歯ブラシにちょうど良い分量を載せて歯を磨く。

この練り歯磨きのチューブから適量を搾り出すこと、

そしてそれを歯ブラシの先に載せることが、

いかにも難しく、なんどやっても上手く出来ない。

しかし、ある朝、練り歯磨きを口に絞り出してみると、

それなら比較的たやすく適量が推し量れる。

その上で歯ブラシを口に運んで磨けば、歯磨きはちゃんとできる。

—————————————————–

健常者と同じ方法・同じ視点でなくても、

障害者がちゃんと暮らしていける方法・視点があるということ。

 

いや、むしろ、

障害者は障害者の方法・視点で生きていくんだ、ということ。

健常者には思いも付かない、障害者ならではの方法・視点があるということ。

 

そしてその時こそ、そこに、新しい人生が切り拓かれていくんだということ。

 

ガツンと思い知らされた気がした。

 

透析という障害を受けた時、

私は、これまでの日常生活の中に透析を溶け込ませることで、

透析を受け入れようとしてきたように思う。

 

被害者意識的に、悲劇の主人公的に、透析を不幸と捉え、

なんとか日常に支障をきたさないように、日常が続けられるように、

日常の中に受け入れようとしてきたように思う。

 

透析を受け入れることに必死で、

日常を変えるだなどという視点は持っていなかった、今も。

 

透析を受けるようになって、一級障害者となってしまったわけだが、

透析生活に慣れたら、日常の生活において、さほどの不便を感じなくなり、

今は、障害者である、という自覚すら薄い。

 

しかし、

腎臓が機能しないということは、

例えば目が機能しないということと何ら変わらない障害であるのに、

(だから、「障害者」なのに)

腎臓の機能を補うために週3回、一回4~5時間の時間を拘束されるということ、

そもそもこれを障害と思わなくなってしまっていることが、

命を粗末にしていることに他ならなく思えた。

 

「一日置きに5時間の拘束時間」を障害者の視点化するとどうなるのか。

今さらながらだけど、考えてみた。

 

透析の拘束時間をテレビを見ながらウトウトと過ごしている。

もちろん食事をしたり、医師の回診があったりで5時間丸々では無いが、

まぁほとんどをウトウトと過ごしている。

 

当初、この拘束時間をどうしようか、どう受け止めようか思い悩み、

それでもなるべく前向きに考えようと、

そうだ、本を読もう、DVDを見よう、日記を書こう、などと。

 

だけど、ベッドに横になった状態で、結局どれもウトウトしてしまい、

今では、何もしようとしないでハナからウトウトしている始末・・・・。

 

しかし、

「透析のため5時間も時間を取られてしまう」じゃなくて

「自分を磨くため、一日置きに5時間の時間が使える」のだ。

 

練り歯磨きの意味するところはそういうことじゃないのか。

 

他にも、例えば、

腎臓が機能しなくなって、水分や塩分を控えることを余儀なくされていること。

 

当初はとんでもなく苦痛で、水分や塩分が脳裏から離れることはなかった。

もちろん慣れてしまった今でも脳裏から離れることはないけど、

苦痛ではなくなって、ほぼ当たり前になってきている。

 

しかし、

「塩分を1日6gに減らす」のでは無く、

「1日6gの塩分からスタートする」のだ。

 

練り歯磨きの意味するところはそういうことじゃないのか。

 

 

例えば、

透析患者の余命が9年であるというデータが公表されている。

 

そんなバカな、20年30年続いている人だっているじゃないか、って

信じようとしていない。

 

透析患者という障害者になったからこそ突きつけられたデータに対して、

それを生きていく障害者の視点に立てず、

昨日と変わらず、サラリーマン生活を続けている。

 

いや、その実、昨日よりもお粗末なサラリーマン生活になっている。

 

その上、

どうせもうすぐ60歳定年になるし(58歳9ヶ月でこれを書いている)、

そうしたら会社を辞めて、障害者年金でほそぼそと暮らしていけばいい。

そういう気持ちが強くなっている。

 

そうなると、もう仕事上の知識や技能や人間関係など、

まったく必要がないものになっていくようにしか思われず、

そんなものはどうでも良くなってしまい、

なんとも無能な使い物にならない人間になり果ててしまっている。

 

その一方で、

60歳定年時点で、透析歴は8年と7ヶ月になっているという事実。

余命9年とすれば、60歳で定年退職してわずか5ヶ月でおしまいになる。

 

そんなバカな、20年30年続いている人だっているじゃないか、って

結局、信じようとしていない。

 

もちろん、

腎機能喪失の原因も一緒くたで、透析開始年齢もまちまちで、男も女も一緒の

そういう統計データだから、 52歳から透析を受け始めた私にとって、

余命9年は、確かに該当しにくいデータだとは思う。

 

しかし、そう思ってしまっては、練り歯磨きの話にならない。

 

9年の命を如何に生きるか。

いや、現時点では、寿命は2年と5ヶ月しかない・・・・・・。

 

60歳まで、のんべんだらりんとサラリーマンを続けていていいのか。

やりたいことがあるんじゃないのか。

それすら思いつかないほどサラリーマンに慣らされたか。

 

余暇のことを考え詰めたことはあるのに(こちらの記事⇒)、

行動を起こす勇気の無さ・・・・・。

 

そういえば、親父は胃がんで、もって1年という宣告をされた。

けっきょく親父には告げられず、

親父は知らずに、58歳で、1年もたずに逝ってしまったが、

急にそれを思い出した。

 

親父の逝った歳を生きているけど、3年ともちませんよ、ってことかぁ。

 

どうすりゃいい?

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