腎臓移植するんだって?(その2)

透析クリニックの隣りのベッドのお兄ちゃんが、
腎臓移植する準備をしてるという話を聞いた。
(その1話はこちら⇒

それから数週間。
彼は休むことなくいつものように透析に通ってくる。
移植手術はまだなのかな?

「移植手術の日は決まった?」
「… まだなんです…」
「なにか問題があるの?」
「… 検査の内容がいろいろあるらしくて…」
「難しいんだね」
「精神状態なんかも検査するんです…」
「手術に耐えられるか、ってことかな?」
「ですかね…、親父も歳ですし…」
「同じくらいの歳だよね、お父さん」
「あ、そうかもしれないです…」
「… 早く決まるといいね」
「はい…」

なんだか返事の歯切れが悪いので、
それ以上突っ込まない方が良さそうに思え、
またまた消化不良だけど話を終えた。

移植手術のための検査を進めるうちに、
なにか想像していなかったような事態が発生したか、
思うに任せない進展状況なのだろうか。

親の腎臓をもらうという決断に至るにはきっと相当の葛藤があって、
だけど、それよりもっと強い力をもって乗り越えてきたに違いない。

子の立ち場にたってみれば、
親の体にメスを入れること、親の腎臓を取り出してしまうこと、
その申し訳なさのようなものにさいなまれるに違いない。

親の立ち場にたってみれば、
子が透析生活を生涯負い続けなくちゃいけないこと、
そのことへの不憫さに居た堪れないに違いない。

しかし、そこは、「親思う 心に勝る 親心」、
親の腎臓を子に分け与える結論を家族で手繰り得たのだろう。

言葉に替えられない親子の絆が成せることなんだろう。
だから他人になんか話せない心のうちがあるに違いない。

私にしてみれば、
けっして単なる興味本位だけからではなく、
同じく透析を受ける者として『腎臓移植の実際』を、
いろいろ知りたいのはやまやまながら、
これ以上質問攻めにするのは忍びなく、
この話はここまでとしよう。

あとは、隣のベッドのお兄ちゃんが、
できるだけ早く、できるだけスムースに移植手術に臨め、
何事もない暮らしに戻っていくことを祈るばかりだ。

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