2011年4月16日、大船渡へ向かう途中、
水沢江刺の病院で透析を受ける(その話はこちら)。
泊まったホテルで朝食を摂っていると、作業服の人が多い。
被災地へ向かう復興支援の人たちだろうか。
被災地へ向かう緊張感のようなものが胸に迫りくる。
近くのコンビニに寄ると、なんとなく品薄な感じだが、
事欠くほどではなく、昼の弁当を買って行くことにした。
被災地に食堂など無いと想定されるし、彼らの分まで買い込んだ。
ここからは、道中、かつて走ったことのある道だが、
いまやどんな爪痕があるやもしれず、緊張は高まる。
が、拍子抜けするほど爪痕は無く、順調に大船渡へ差し掛かる。
さらに大船渡へ入っても、すぐにズタズタになってるわけではない。
それは海抜の問題のようで、山側から大船渡へ入ってきたため、
ある程度低い海抜のところまで行かないと、津波の痕は無いということなのだ。
それでも、気持ちを構えて沿岸部へ車を走らせると、
いよいよテレビで見たあの惨状が目の前に広がった・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
車が・・・・・、家が・・・・・・・、船が・・・・・・・、学校が・・・・・・・・・・・・、・・・・・・・・・、
言葉を無くす・・・・・・・・
想像を超える惨状の中、
それでも主要な道路は、瓦礫を両脇へ押しやって、道を車が通れるようにしてある。
それが、この1ヶ月の精一杯の復興なのだろう。
変わり果てた景色の中、アクセルを踏むのを忘れてしまいそうになりながら、
彼の待つ、港へと向かう。
どこまでも瓦礫が両脇に積み上げられた道路に以前の面影は何も無く、
沿岸道路に面した、彼の家跡も港の作業小屋跡も見つけられない・・・・・・。
と、道路脇、沿岸に人影が!
彼だ!
車を停め、飛び降りて駆け寄り、思わず抱きしめる。
「良かった!」
「よく来てくれたなぁ、すっごいべ?」
「なんて言ったらいいのか・・・・・」
「ほれ、ここにあった小屋も、あそこにあった家も、な~んもかもだ」
「生きてて良かった・・・・・」
彼は、家の裏山の農機具小屋に避難生活をしているという。
流されたモノを拾って洗ったりしながら小屋で生活していると案内してくれる。
奥さんがお茶を煎れてくれて、
水沢江刺で買って来た弁当など広げながら、その日の話など聞く。
津波が来ることは解っていたという。さすが海に生きる人だ。
だから家族皆すぐに裏山へ避難したのだと。
そして、裏山から、自分の家が流されるのを見ていたのだと。
古い大きな家だった。
それがプカンっと浮いて、ぷかぷか流されていって、
引き波で戻されてきて、クシャっとつぶれたのだそうだ。
それを見ていた気持ちを思うと胸が押しつぶされそうになる。
ひとしきり話を聞かせてもらった後、市街地を見に出かけようと誘われる。
日々に追われ、なかなか足を運ぶこともなかったのだそうだ。
大船渡の駅、駅前商店街、なにもかもがめちゃくちゃだ。
あちこちの壊れた建物に、赤いペンキで大きな×印が目に付く。
誰かが亡くなった場所だという印なのだろうか、
捜査済みだという印なのだろうか、
心がいたむ。
隣町の陸前高田にも車を走らせてみる。
一面の瓦礫の原・・・・。
ただ、言葉をなくすだけ・・・。
何をするでなく、何ができるわけでなく、
ただ、あちこち見て回って、胸がふさがれたような気持ちになって、
日が暮れようとする頃、
「ぼちぼち帰るね」
「今日はほんとにありがとう。嬉しかった。また来てくれ」
「うん、きっと来るよ、がんばってよ」
後ろ髪を引かれる思いで大船渡を後にした。
(つづく)