東日本大震歳から4年。
正直、思いが薄れてしまっている。
津波に、家も船も仕事場も流されてしまった大船渡の友人が、
なんとか自宅を再建できた辺りから、思いが薄れ始めてしまった。
2011年3月11日。
浜松の職場で感じた揺れの異常さに、思わず事務所を飛び出した。
何事もないことに首をかしげながら事務所に戻り、テレビを付けた。
記憶が曖昧だが、
大地震の速報が流れていただけで、まだ津波の報道はされていなかった。
その日は、透析の日だったため、すぐに事務所を出て透析病院に向かった。
病院のベッドでテレビを点けて唖然とした。
津波に街がのみ込まれる。何もかも押し流されていく。
現実のものとは受け入れがたい光景が次々と報道される。
3日前、大船渡の友人からメールがあった。
地震の津波でカキ棚が壊れてしまって修復に追われている、と。
3日前にも東北ではそんな地震があったのだ。
まさか・・・・、彼は海に居た?
まさか・・・・・・
連絡が取れない。
家の固定電話はもちろん、携帯電話も携帯メールもすべてダメ。
自分のブログにすぐに記載した。
個人情報が云々なんて言っていられない。
私はどこの誰で連絡先はここで、どこの誰と連絡が取れない。
消息をご存じの方は連絡をください、と。
災害伝言板のようなサイトにもあちこち書いた。
1日経ち、2日経ち、ブログや伝言サイトに情報が寄せられる。
すごい情報社会の世の中だ。
私も探している、という記述。
無事に非難していると聞いている、という記述。
そして、4日後、とうとう電話がかかってきた。
彼の息子さんからだ。
仙台にいるという大学生の息子さんからだ。
「父は無事避難しています」と。
泣いた。
電話口で、「よく知らせてくれた」と、お礼を言って泣いた。
そして何日か後、とうとう本人と電話で話せた。
「み~んな流されたぁ、家も船も、な~んもかもだぁ」
「でも良かった、生きていて良かった・・・・」
それ以上、言葉が無く・・・「がんばってよ」
『がんばれ』
がんばっている人に、がんばれというのは配慮に欠けると、
まことしやかな論調をよく耳にするし、本で読みもする。
なるほどもっともだと、極力使わないようにしていたが、
なにか違う、と思った。
ほかにしっくりする言葉を知らないのだ。
震災で家が流され、食べるものも飲むものも、
電気もガスも燃料も連絡手段すらも奪われてしまった避難生活の彼が、
がんばっていないわけがない。
だけど、「がんばって!」なのだ。
くじけないで生き抜いて欲しい気持ちを伝えられる言葉は、
「がんばって!」なのだ。
さぁ、無事とわかれば、復興だ。
何でも持って大船渡へ行かなくちゃ。
「何か欲しいモノはないか?」
欲しいモノだらけに決まってるじゃないか、間抜けな質問だ・・・・・。
しかし、彼は言う。
「な~んも要らねぇ、顔見せてくれ、この状況を見に来てくれ」
「わかった、行くよ、待ってて!」
すぐに行こうと思った。が、
周囲の大人達の分別ある壁が立ちはだかった。
「余震が続いているっていうじゃないか」
「おまえが行って何の役にたつ?ただでさえ病人なのに」
「被災地じゃ透析だってできないじゃないか」
「ボランティアでさえ手弁当、泊まるところも無いって言ってる」
「もう少し落ち着いてからでも遅くないじゃないか」
まことしやかな大人の分別だ。
でも違うんだ!
すぐに行かなきゃダメなんだ!
避難小屋で、一日千秋の思いで待ってるに違いないんだ。
確かに、自分が行ったって何もできずに迷惑なだけかもしれない。
だけど、「駆けつける」思いを伝えることが、支えになるかもしれない。
だから、行くんだ。
言ってるうちに時間は過ぎ、4月の中旬、
「流された家の解体が始まった」と大船渡からの知らせ。
行くぞ、何が何でも行くぞ!
内陸部の病院に当たりをつけて、
水沢江差の病院に透析の予約電話を入れてみる。
透析だけは目処をつけておかないとどうにもならない。
「被災者じゃありませんが、臨時の透析を受け入れてもらえるでしょうか?」
「どうぞ」
「大丈夫ですか?ご迷惑じゃありませんか?」
「大丈夫です、ベッドは空いています」
ただ、余震があり最悪の場合、3時間とか短時間で終わるかもしれないと言う。
「そんなことは構いませんので、よろしくお願いします」
ヨシ!透析が確保できた!
廻りの大人達には告げずに(妻にだけは告げて)出かけることにした。
妻は言う。
「行くのはいいけど、何かあったら、私が悪者ね」
妻にも協力してもらい、それでも積めるだけの物資を車に積みこんで、
朝4時に起きて大船渡に向かう。通勤ラッシュ前に東京を抜けたい。
東北自動車道はズタズタなのかと思っていたら、そんなことはなく、
自衛隊の車や「災害支援」とか看板を付けた車が目に付く中、
スイスイとお昼に仙台に着く。
仙台の街中をグルッと走って見るが、それらしい爪痕は目に付かない。
被災がひどかったのは、きっともっと沿岸部なんだろうと思いながら、
昼を済ませ、再び北へ向かう。
ひたすら、ひたすら北へ。
遠い・・・・。
♪愛よ急げよ 待つ人の元へ
風になり鳥になり雲になり 急いで走れよ
南こうせつの「愛よ急げ」が沁みてくるシーンだ。
夕方4時~5時頃と予約している、水沢江刺の病院に入る。
「遠くから、ようこそ」
「よろしくお願いします」
水沢江刺の街中は被災の爪痕は感じられない。
看護婦さんに聞いても、被害は無いという。
透析病院も被災者でごった返しているのかと思いきや、
なんとなく平穏な感じで、透析ベッドもいくつか空いている。
病院としては、被災した透析患者の受け入れができるように、
ベッドを空けてスタンバイしているのだが、内陸部にまでは来ないと言う。
沿岸部からは、車で2時間(飛ばして1時間半)かかるから、
そこまでは来なくても用が足りている、ということなのだろうか。
でも沿岸部は全滅のはずだが・・・。
今夜は、ここでホテルに泊まり、明日朝、いよいよ大船渡へ向かう。
(つづく)