60歳定年後の余暇について考えている。
若い頃、総務の仕事をしていた時のこと。
景気が良くて、工場には人手が足りなくて困っていた。
そんな中で、55歳の定年退職を迎えた方が居た。
(当時は55歳が定年だった)
私は、お役目として、退職の手続きをする一方で、
さらに延長して働いてもらえないものか打診した。
「定年までお疲れ様でした。
ところで、もう少し続けて工場で働いてもらえませんか?」
「ありがとう。せっかくだけど休ませてくれ」
「はぁ・・・」
「俺はな、小学校を出てからずっとな、がんばってがんばって働いて、
かみさんもらって、だけど、お茶碗とお箸しかない生活から始めてな、
ちゃぶ台を買って、タンスを買って、ラジオを買って、冷蔵庫を買って、
働いて働いて、ひとつひとつ買い足して、やっと定年を迎えただぞ。
な、だから、休ませろ。な」
聞いているうちに、この方の人生が頭の中にぐるぐる廻りはじめ、
55歳まで働くということ、働き上げるということは、まったく尊く、
なんだか涙が出そうになっていて、まともに返事ができない。
「はい・・・・・」
「ず~っと仕事ずくめだったで、 家のことも放ったらかしだ、な。
あっちもこっちも片付けしにゃいかんし、草は生え放題だし、な。
わかるら?」
「はい・・・・・。」
「だで、休ませろ。工場が忙しいのは知ってるけど、休ませてくれ」
「わかりました。えらそう言ってすみませんでした」
60歳の定年を迎える日、私もこの方のように、
「ちょっと休ませろ」って言えるくらいに働こうと思った。
美しい姿だと思った。
それから、一ヶ月ほど経ったある日、
社会保険か何かの手続きで、彼のお宅を訪ねた。
「ぉお~、良く来た。元気か?まぁ上がれ」
「ご無沙汰しました、お元気そうで」
彼は日の当たる縁側に腰を下ろし、私を手招きする。
「かあさ~ん、お茶くれ」
奥さんはお茶を出してくれ、
「あたしは、買い物に行って来ますよ、ごゆっくりね」
奥さんは、そう言って出かけていった。
「俺はな、いつもかみさんの買い物に着いていってやるだよ」
「そうなんですか、優しいですねぇ」
「違うだ、やることがないだ」
「はぁ?片付けやらなにやら忙しい、って」
「そんなもの一ヶ月もかかりゃせん。ちゃちゃっと一週間もありゃ充分だ」
「要領がいいんですね、きっと」
「この頃じゃ、ここでこうして何してると思う?」
「ひなたぼっこ、ですか?」
「それもあるが、草が生えてくるのを待ってるだ」
「草が・・・・」
彼は、翌日からまた工場で働いてくれることになった。
働きに働いて、やっと手にした自由な時間。
だけど、その自由な時間が苦痛に変わってしまった。
余暇能力を養ってこなかったからだ。
(余暇能力のことはこちら→)
と、そう言ってしまえばそれまでのことだが、
働くことが美しく、遊ぶことはもってのほか、
そういう社会に生きている自分も例外じゃない、と思った。
テレビもエアコンもパソコンも何でもあるから、
そういう生活物資を買うために働いている意識はないが、
働きに働いて働きずくめで、と彼が言う姿に変わりは無い気がした。
定年を迎える時、
仕事を離れても意気揚々と暮らせる自分になっていようと思った。
それから20数年、まもなく定年を迎えるが、果たして・・・・・。
妻は言う。
「あなた、やることが無いんだから、会社に置いてもらえるなら
なるべく置いてもらった方がいいわ。ぜったいにボケちゃうから」
そうだろうか?