大震災に見舞われた大船渡の友人を訪ねて、(こちら)
それからまた時間が過ぎてしまった。
ある日、
北海道でバイトをしていた娘が、
北海道からの帰りに、東北を見てみようかなぁと言う。
さっそく大船渡の友人に連絡して、娘の案内を頼んだ。
あの惨状を見ておくことは、
きっと心の糧になると思っているし、
ましてや被害に遭った人と話すことは、
何にも増して人生の糧になると確信している。
ある日、
その大船渡の友人が東京まで用事があって出てくるという。
「その足、河口湖辺りまで延ばしなよ」
富士山を間近に見るのもいいだろうし、何より妻に会わせることができる。
彼は、富士山を仰いで言う。
「すごいなぁ。間近に目にしないとわかんねぇ、なぁ」
「震災もそうだね」
自然の美しさも雄大さも過酷さも残忍さも、
説明しようとしても言葉を失ってしまって、うまく伝えられない。
安っぽい言葉で伝えようとすると、大自然の失笑を買うような気がする。
震災から学ぶことも、震災の爪痕に触れないと、ほんとうには学べない。
思いの強さとか方向性とかが食い違っていってしまいそうに思う。
家族もあの地に立たせないと、同じ思いを共有しきれない気がする。
特に、妻とは、この思いの出発点を共有しておきたい。
この価値観は理屈で納得できるようなモノじゃない気がしていて、
しだいしだいに、そう強く思うようになる。
時が過ぎ、彼から自宅を再建したと知らせが入る。
「一緒に大船渡へ行ってくれないか」
妻を誘って大船渡へ行く算段をした。
大船渡駅前に驚異のスピードで復興したホテルを予約し、
高台にある大船渡病院に透析の予約をした。
一関から、気仙沼・陸前高田を走って大船渡に入る。
震災から2年強が経過し、瓦礫はかなり姿を消していた。
NHKのあまちゃんが放映されていて、
なんとなく知っているような気にもなっていた岩手だが、
それでもその惨状に妻も言葉をなくしているようだ。
もう、それ以上の説明は要らない。
彼の新築の家を訪ね、お祝いをする。
震災直後、避難生活をしていた農機具小屋のあったところに、
立派な家が建てられている。
「どんどん、どんどん、おっきくなっちまっただぁ」
借金の返済が頭をよぎると言いながらも、嬉しそうである。
資材も大工さんの日当も日に日に値上がり状態なのだそうだ。
こんな状況でも需要と供給だっていうのか・・・・・。
ひとしきり新築の家をお祝いして、
市街の復興の状況を見に行こうと誘ってもらい、出かけた。
彼は、あちこち案内してくれて、妻にいろいろ説明をしてくれる。
大船渡のお魚センターで買い物したり、釜石の仮説商店街で食事してみたり、
陸前高田の奇跡の一本松、気仙沼の陸に打ち上げられた大型船、と、
観光客みたいな時を過ごした。
しかし、
妻に、震災の爪痕・空気をその目でその肌で感じてもらい、
この経験から、これから生きていくための何かを共有していける気がした。
同じ価値観でモノを考えられる土台が出来るような気がした。
(つづく)