はじめての透析、その日の朝は普通にやってきた。
もう後戻りできない日だというのに、普通にやってきた。
何かのドラマのように劇的だったりはしない。
今日から2週間ほど入院をして、透析に体を慣らすのだ。
「雨ね、大丈夫?忘れ物ない?」
「大丈夫だと思うよ」
それでも、何か忘れ物をしているような不安な気持ちで家を出る。
病院に着いて、入院手続きも淡々と過ぎていく。
病室に通され、病院で渡された寝間着に着換える。
さて、どうしたものか。
妻とふたり、何をするでもなく、いたずらに時が過ぎ、
言っているうちにお昼の時間が来てしまった。
「朝から来る必要があったのかしら?」
「ほんとだな」
運ばれてきた食事に見入る。
「これが透析食なのね?」
「うん、見た目には変わらないな」
この2年半ほど、減塩で腹八分目の食事をしてきた。
透析にならないよう、必死で努力をしてきたつもりだった。
妻も必死で食事の用意をしてくれてきた。
それだけに、プロの作る透析食に興味がわく。
ひと口食べる。
「おいしいぞ、普通の味がする」
「どれ? ほんとだ」
さすがはプロが作ると違うもんだと、妻と感心することしきり。
が、退院の時になって、それはクリニック側の手違いで、
透析食ではなく、普通の食事なのだと判明するのだが・・・・・。
妻は、昼から仕事に行った。
私はひとりベッドでウトウトとまどろむ。
完全個室の病院で、誰かと接触することもない。
何も情報が入って来ない。
「透析に行きます」
看護婦さんが呼びに来た。
来た!
ついに!
透析だ!
「あ、は、はい!」
寝ぼけ眼で慌てて支度をする。
(支度は妻が整えてくれてあったが ^^;)
・バスタオル1枚
・普通のタオル1枚
・ティッシュペーパー1箱
何に使うのか知らないが、そう書いてあったから支度した。
「では、いきましょうか」
「はい、お願いします」
看護婦さんについて、透析室へと向かう。
とうとう透析がはじまってしまうのだ。
看護婦さんについて透析室へ入ると、
そこにはたくさんのベッドが並んでおり、何人かの人がベッドに寝ている。
透析を受けている人たちなのだろう。
「こんにちは~」
妙に明るいあいさつで迎えられる。
「はい、じゃ体重量ってね」
体重を量ってベッドに案内される。
「それではこちらのベッドをお使い下さい」
「はい、ありがとうございます」
看護婦さんが、手際良く、持ってきたバスタオルをベッドに敷き、
普通のタオルを枕に被せ、ティッシュペーパーを枕元に置いてくれる。
なるほど、そうやって使うのか。
「イヤホンは持ってないですか?」
「はい(そんなこと聞いてないし・・・)」
「それじゃ、お願いします。私は○○です」
「よろしくお願いします」
緊張していて名前を覚えていない・・・・・、声もかすれた・・・・・。
ガチャガチャと何やら準備する音がする。
元より、注射針が刺さるところは直視できない質なので、
反射的によその方を向いてしまう。
じつは太い針をさすのだ。
想像を越える太さの針なのだ。
緊張がさらに高まってくる。
「それじゃ、始めますね」
「はい」
緊張はピークに達し、全身に汗がにじみ始める。
いよいよ針が刺される。
「グイっ!」と音がしたのではないかと思うほどの衝撃・・・。
「ググググっ!」とさらに差し込んだと思われるような感触・・・。
針が刺されるところを見る勇気はないから、余計に想像は膨らむ。
全身に汗が吹き出し、空いている側の右手の拳を握りしめる。
「もう、一本ね」
「はい」声にならなかった?
汗が流れ出した。
深呼吸だ。
「大丈夫?」
「な、なんとか・・・」
右腕の握りこぶしには爪が割れんばかりに力が入る。
針を刺された左腕は、鋼鉄のように固く動かない。
針が刺されていると思うと、恐怖でピクリとも動かせないのだ。
「はい、終わりましたよ」
「は、はい・・・・」
もう体中に汗が流れている。
はぁ・・・終わった、やっと終わった・・・・・。
いや、これから始まるのだ。
透析が始まってしまった。
透析なんて人生おしまいだ、って思っていた。
だけど、透析になってしまう以上は、しっかりした覚悟を持って、
どのように生きていったらよいかの指針を腹積もりして、・・・・
そう思っていたのに、
何の覚悟も指針も腹積もりもないままに、透析は始まってしまった。
透析にならないよう、努力してきたのに。
減塩して、腹八分目にして、20kgもダイエットして、・・・・・・
なのに、結局は透析になってしまった・・・。
何を準備したらよいのか、
どういう覚悟を決めたら納得できるのか、
友達のこと、仕事のこと、家族のこと、
透析を抱える人生と向き合おうとすると、こそこそと逃げ出し、
正面から向き合おうとしない。
そうこうしているうち、
透析は始まってしまった。
「はい、スタートしました。今日は初めてですから2時間でね」
「はい」
「針先とか痛くない?指先しびれない?頭痛くない?」
「はい、たぶん、大丈夫です」
いや、本当は、針刺された衝撃で全身がビリビリしていた。
「テレビつけときますね、イヤホンは病院のを使って」
「ありがとうございます」
静かに目を閉じる。
次第に汗もひき、気持ちもおさまってくる。
始まってしまった。
透析人生が始まってしまった。
一日おきに病院へ通う人生が始まってしまった。
もう戻れない、一生こうして透析を続けるんだ。
はじめての透析は進む。
ただ眼を閉じて、始まってしまったことを自分に言い聞かせる。
そして、透析が始まる前に出しておきたかった答えがなかったか、
自分に問いかける。
その答えへの道筋すらはおろか、道筋への入り口すらも見えず、
ただただ考えることから逃げてばかりいるうちに、
透析は始まってしまった。
どれくらい時間が経ったのかなぁ。
時計は持ってきてないし、
眼鏡は外してしまっているので病室の時計も見えないし、
針が刺されている怖さから身動きできずにベッドに張り付いて、
じっと時の経つのを待つばかり。
「大丈夫?」
血圧を測りに看護婦さんが巡回してきた。
時間を尋ねればいいのに、そんなこと聞くとみっともないような気がして、
「はい」と冷静に応じたつもりが、声がかすれた。
そうだ、テレビだ。
テレビを見れば時間が解るかもしれない。
テレビのリモコンを右手で探る。
透析開始から初めてほんのちょっとだけ体を動かした。
どうにかテレビのスイッチを入れるが、
ウィークディの昼下がりの時間帯のテレビ番組など知らず、
結局、何時頃なのか解らない。
まだかなぁ。
2時間って言ったよなぁ。
と、ベッドの横の透析の機械から、何やら音楽が流れ出す。
な、なんだ?
看護婦さんが駆けてくる。
何かトラブルか?
ちょっとのことが不安をあおる。
「はい、時間です、終わりますね」
「はい・・・・・」
良かったぁ、終わりだぁ。
はじめての透析が終わる。
ガチャガチャガチャガチャ、何やら準備が進む。
「それでは針を抜いていきますね」
「はい」
一本目の針が抜ける。
え?痛いじゃん・・・・。
油断をしていた。
針を抜くときも痛いんだ・・・・・・。
二本目は充分に構えて抜いてもらった。
そして止血。
看護婦さんがベッドサイドに腰をおろし、針痕を押さえてくれる。
ずいぶん長いこと押さえていてくれる。
後から解ったことだが、10分がめどのようだ。
「いいですね、止りました。終了です。お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
「どう?起きれる?」
「はい・・・・・」
って、体が硬直してしまっていて、すぐに起き出せない。
体がぎくしゃくしてしまう。
すると、車椅子が用意された。
ちょっと待ってもらえば動けそうに思うけど・・・・・・。
ちょっと動くと頭がフラフラするので、
お言葉に甘えて車椅子に腰をおろす。
車椅子のまま体重を量る。
何キロだから、何キロ引いた、とか上の空で聞いた。
後から解ってくるのだが、
透析によって血液中から水分を引いて、体重調整を図るとのこと。
調整する水分の量が多ければ多いほど、体に負担がかかるらしい。
病室の看護婦さんが来てくれて、
車椅子で病室まで連れて行ってもらう。
すっかり、病人気分だ・・・・・。
はじめての透析が終わって車椅子で病室へ戻る。
「お疲れ様、どうだった?」
「体がギクシャクしてる」
「針は痛かった?」
「痛いを超えて、衝撃だった。まだジンジンしてる」
「怖いよねぇ」
病室に入り、ベッドにへたり込む。
「じゃぁしばらく休んでいてね、もうすぐ晩ご飯だから」
「はい、ありがとうございました」
横になって、大きくため息ついて目を閉じる。
始まっちゃった。
これが透析か、これを一生繰り返すのか、こりゃ大変だ。
答えが出ていない問を問いかけようとして、また背を向ける。
そうだ、妻が心配している、メールしておこう。
「無事終了、病室に戻った」
すぐに返信が来た。
「はい、もうすぐ行くからね」
目を閉じる。
眠ったのか?
妻の気配で目が覚める。
「どう?大丈夫?」
「ぁあ、もう大丈夫だよ」
運ばれてきた病院の夕ご飯と、妻が買ってきたお弁当で、夕食とする。
「針が太くてさ、強烈に痛いんだ・・・・」
「そう?イヤね・・・」
そのうち、娘も息子も来てくれて、
ベッドサイドでいつもの家族だんらんが始まった。
透析というハンディは、家族にも大きく負担がかかっていくに違いない。
だけど、家族の誰も、それがどういうものなのか想像ができず、
何がどう変わるのか、何をどう準備すれば良いのか、誰にも解らず、
だからなのか、誰も透析の話題に触れようとせず、
ベッドサイドのいつもよりも近い距離で、いつもと変わらぬ会話を交わす。
「そうだ、イヤホン買ってきてくれないか」
「今から?すぐ欲しいの?」
「明日でもいいよ、透析中にテレビを見るのに欲しいんだ」
「いいよ、行ってきてやるよ、まだ店開いてるよ」
娘と息子は駆け足でイヤホンを買いに行ってくれた。
そうして面会時間いっぱいまで、
テレビを見たり、それぞれの今日の出来事をおしゃべりした。
そう、透析もなんにも特別なことじゃなくて、
今日の出来事のひとつに過ぎないのかもしれない。
何も変わっちゃいないのかもしれない。
面会時間が過ぎ、家族は帰り、またひとりの時間になる。
何人かの友人からもメールが入る。
身近に暮らす友人、遠くに暮らす友人、もうしばらく会っていない友人、etc
透析の針が痛かったことを笑い話にしようとして、うまく笑い話にできず、
心配してくれる気持ちが嬉しくて、よけいに心配をあおってしまう。
消灯が過ぎて、一人目を閉じて今日を振り返る。
いや、振り返ろうとして振り返らず、
いつしか眠りに落ちた。
はじめての透析の一日が過ぎた。
(つづく)